さて、今回は日本のプロ野球を国民的スポーツまで発展させた人物、明るいキャラクターでいつも僕たちを楽しませてくれる、長嶋茂雄さんをとりあげます。もう引退してから40年以上は立ちますが、長嶋さんの名前を知らない人はいないくらい有名人ですよね♪(^^) 長嶋選手の偉大な功績を書いてみようと思います。
長嶋茂雄の通算成績
実働17年 | ||
試合 | 2186 | |
打席 | 9201 | |
打数 | 8094 | |
安打 | 2471 | 9位 |
二塁打 | 418 | |
三塁打 | 74 | 8位 |
本塁打 | 444 | |
盗塁 | 190 | |
四球 | 969 | |
三振 | 729 | |
出塁率 | .379 | |
長打率 | .540 | |
打率 | .305 | |
得点 | 1270 | |
打点 | 1522 | 7位 |
新人王 昭和33年
MVP 5回
首位打者 6回 セリーグ記録
最多安打 10回 日本記録
本塁打王 2回
打点王
ベストナイン 17回
ダイヤモンドグラブ賞
4試合連続3塁打 日本記録
開幕戦通算10本塁打 日本記録
安打王は10回で日本記録ですが、通算3085安打、首位打者7回のの張本勲さんでさえ最多安打は3回だけなのを考えるとこれは大記録と言えます。
3塁手のベストナインは1度も落選することなく実働17年間全て選出されています。
(17年間全て規定打席到達)
また、大舞台にも滅法強く、3大舞台で3割をキープしています!
公式戦 .305 オールスター.313 日本シリーズ.343
長嶋茂雄の年度別成績
年度 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
S.33 | 153 | .305 | 29 | 92 | 37 |
S.34 | 150 | .334 | 27 | 82 | 21 |
S.35 | 151 | .334 | 16 | 64 | 31 |
S.36 | 158 | .353 | 28 | 86 | 14 |
S.37 | 151 | .288 | 25 | 80 | 18 |
S.38 | 163 | .341 | 37 | 112 | 16 |
S.39 | 144 | .314 | 31 | 90 | 13 |
S.40 | 151 | .300 | 17 | 80 | 2 |
S.41 | 163 | .344 | 26 | 105 | 14 |
S.42 | 134 | .283 | 19 | 77 | 2 |
S.43 | 157 | .318 | 39 | 125 | 8 |
S.44 | 156 | .311 | 32 | 115 | 1 |
S.45 | 128 | .269 | 22 | 105 | 1 |
S.46 | 155 | .320 | 34 | 86 | 4 |
S.47 | 119 | .266 | 27 | 92 | 3 |
S.48 | 130 | .269 | 20 | 76 | 3 |
S.49 | 108 | .244 | 15 | 55 | 2 |
合計 | 2471 | .305 | 444 | 1522 | 190 |
東京S.4六大学野球で8本塁打の新記録!
長嶋さんは昭和11年2月20日に千葉県印旛郡白井町で、4人兄弟の末っ子として生まれました。
子供時代から運動神経は抜群でした。物干し竿バットで有名な藤村富美男選手か好きで、阪神タイガースのファンだったそうです。よく、藤村選手の真似をして素振りをしていたそうです。
千葉県立佐倉第一高等学校時代は甲子園出場はなく、全国的には無名の選手でした。公式戦で打ったホームランは僅かに1本。
しかし、この本塁打が107メートルの大本塁打でプロのスカウトから注目されます。
巨人軍から入団のオファーが来ますが、長嶋さんの父親が本人に伝えないで断ったというエピソードがあります。
大学は名門の立教大学に入学します。同期には、のちに南海ホークスで187勝を挙げて大投手となる杉浦忠投手や、主将をつとめた本屋敷 錦吾選手もおり、この3人は「立教三羽烏」と呼ばれました。
立教大学時代に当時六大学野球記録のホームランの8本という新記録を打ち立て、全国的に有名な選手になりました。(現在は高橋由伸選手の23本が記録)

プロ野球入団 開幕戦で4打席4三振!
当然プロ野球関係者から注目されて争奪戦が繰り広げましたが、特に南海ホークスが熱心に誘ってきます。長嶋さん自身もほとんど気持ちは南海に傾いていたそうです。昭和30年代当時は今のようにドラフト制度はなく、自由獲得競争時代です。
ですが、結局最後は巨人に入団することになります。因みに同期の杉浦投手は南海ホークスに、本屋敷 錦吾選手は阪急ブレーブスに入団しました。契約金は当時最高額の1800万円。年俸は200万円。破格の待遇でした!
(因みに南海ホークスはさらに高額の2000万円を用意していたそうです)
オープン戦で7本塁打を打ち、自信満々で公式戦に臨みました。しかし、開幕戦で国鉄スワローズの大投手、金田正一投手に4打席4三振をきっしてしまいます。(金田投手はのちに400勝を達成しますが、この時点では182勝をあげていました。)
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しかし、昭和33年のシーズンを通じて、打率.305 本塁打29本 打点92打点という好成績で、新人ながら本塁打王と打点王の2冠王となり、文句なしの新人王に選ばれました。以後は毎年のように好成績!
因みに長嶋選手のポジションは三塁手で右投げ右打ちです!背番号は3番です。
金田投手のほかにも当時のライバルは阪神の村山実投手や小山正明投手がいました。昭和34年6月25日の天覧試合では、見事に村山投手からレフトスタンドにサヨナラホームランを打っています。
昭和34年に王貞治選手も入団してきて、以後、この2人を中心にしてプロ野球は国民的なスポーツになりました。2人は頭文字からONと呼ばれることが多いです。
長嶋さんは新人の年に、ホームランを打っておきながら、ファーストベースを踏み忘れて本塁打を1本損したことがあります。この1本がもし記録されていれば30本塁打となり、新人でトリプルスリー(3割、30本塁打、30盗塁)を達成していたことになります。
2度の監督時代
昭和49年に現役を引退し、翌昭和50年に巨人の監督に就任。初年度は巨人史上初の最下位という成績でした。翌年東映から張本勲選手を獲得、外国人選手のジョンソンを獲得、西鉄から加藤初投手も獲得するなどして戦力補強をして、2年連続リーグ優勝!残念ながら日本シリーズは阪急ブレーブスに2年連続して敗退しています。
2度目の監督となった平成6年には、シーズン序盤に独走していました。しかし、後半戦失速して、もう2度とないと言われている中日との最終戦同率決戦が10月8日に行われました。見事にチームは勝利し、日本シリーズも西武ライオンズを4勝2敗で倒して、長嶋さん自身、監督として初の日本一に輝きました!
平成12年も、リーグ優勝。当時パリーグのダイエーホークスの監督を務めていた王貞治監督と、ON対決として注目されました。結果は2連敗からの4連勝でまたも日本一!結局2度の監督時代で、リーグ優勝5回、日本一に2度輝きました。

色々なエピソード
長嶋さんを評して天才だとか宇宙人とか言う人も沢山いますが、本人はどちらかと言うと努力という方が正解だと以前からインタビューで語っていました。
①息子の一茂置き忘れ事件
②ビートたけしゴルフ事件
①ですが、まだ一茂が子供の頃に後楽園球場に一緒に連れてきて、試合後連れて帰るのを忘れてしまった話ですが、本当の様です。( ´Д`)
因みに、忘れて帰った日は、王さんがホームラン記録を樹立した日だと、故青田昇さんがラジオでしゃべっていました!
②ビートたけしをゴルフに誘っておいて、
ゴルフ場でたけしに会ったとたん、「たけちゃん、今日は誰とゴルフ?」と言ったという話も実話だそうです。( ´Д`)