さて、今回は日本野球の歴史に残るホームランバッターの紹介です。
昭和20年代後半~昭和30年代の西鉄ライオンズの主力打者で、僅か7年の間に数々のタイトルを獲得した、中西太選手になります。
中西選手は、数少ない高卒の新人から活躍し、とにかく飛距離のあるホームランバッターとして活躍しました。
通算本塁打数は、244本とベスト50位にもランクインしていませんが、王貞治選手をしのぐ日本史上最強の打者という人もいるくらいです。
勿論、有名な西鉄ライオンズの黄金時代の主役の選手の1人でもあります。
また、軽快なフットワークと、強肩で、名三塁手としても評価されています。
それでは、中西太選手の怪物ぶりを紹介します。
同じ西鉄ライオンズでエースだった稲尾和久投手の記事はこちらです。↓(*^-^*)
[blogcard url=”https://fuku–blog.com/kazuhisa-inao-record/”]
大映スターズのエース、林義一投手から、推定162メートルの大ホームラン
昭和28年、8月29日の大映スターズ戦で、林義一投手からライナー性の打球を打ちます。
林投手は、打たれた瞬間は、ライナーで弾道が低く、「ジャンプしたら、取れる」と思ったそうです。
しかしそのまま、打球は伸びてバックスクリーンを遥かに超えて、場外の福岡福祉まで届きます。162メートルの大ホームランになりました。
福岡福祉は、外野スタンドから更に50m先にあるため、180メートル以上飛んだ可能性があるともいわれています。
とにかく、打球の速さと、飛距離には定評があり、「日本プロ野球史上最強の打者」という評価をえています。
毎年三冠王級の活躍 タイトルを沢山獲得
中西選手は、全盛期に、毎年三冠王級の活躍をしていました。
二冠王になること、実に4回。
昭和28年には、打率で南海ホークスの岡本伊三美に4厘差の2位。
昭和30年は、打点で、毎日オリオンズの山内一弘に1打点差の2位。
昭和31年は、打率が同僚の豊田泰光選手に5毛差の2位。
昭和33年は、大毎オリオンズの葛城隆雄に1打点差の2位。
いずれもわずかの差で三冠王を逃しています。
しかし、中西選手の活躍で、三冠王というものが日本のプロ野球に認識されることになった功績は大きいです。
怪童のニックネーム
中西さんのニックネーム、「怪童」ですが、プロに入ってからつけられたわけではなく、高松一高の学生時代に、すでにつけられていたそうです。
因みに、プロ野球で怪童と呼ばれたのは、この中西太さんと、東映フライヤーズで活躍した、尾崎行雄投手の2人だけです。
尾崎投手は、甲子園で優勝投手となり、高校を2年で中退して17歳でプロ入り。豪速球を武器にプロの打者をきりきり舞いさせました。
尾崎投手については、改めて記事を書こうと思います。
昭和28年に、岩本義行、別当薫に次ぐ、史上3人目のトリプルスリー達成
中西選手は、そのずんぐりむっくり体型に似合わず足も早く、昭和28年には、36盗塁も記録しています。
この年は、ホームランも36本、打率も.314を記録して、岩本義行、別当薫に次ぐ、史上3人目のトリプルスリーを達成しました。
因みに、中西さんの次のトリプルスリーは、昭和58年の阪急ブレーブスの蓑田浩二選手なので、長い間(30年間も)達成する選手がでなかったことになりますね。
高卒1年目から活躍。見事新人王
中西さんは、昭和26年に、高松一高から西鉄ライオンズに入団します。
高松時代は、甲子園に通算3回出場。ホームランを2本打っています。実は、このホームランは2本ともランニングホームランでした。
1年目の、成績は、打率.281 12本塁打、65打点。高卒新人としては好成績で、文句なしの新人王に選ばれました。
プロ入り初ホームランもランニングホームランでした。
高卒の新人打者(1年目)で新人王になったのは、令和2年の現在でも、中西太、豊田泰光、榎本喜八、張本勲、清原和博、立浪和義しかいません。
選手名 | 年度 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 |
中西太 | 昭和27年 | 108 | .281 | 12 | 65 |
豊田泰光 | 昭和28年 | 113 | .281 | 27 | 59 |
榎本喜八 | 昭和30年 | 146 | .298 | 16 | 67 |
張本勲 | 昭和34年 | 115 | .275 | 13 | 57 |
清原和博 | 昭和61年 | 123 | .304 | 31 | 78 |
立浪和義 | 昭和63年 | 75 | .223 | 4 | 18 |
※立浪選手(セリーグ)以外は全てパリーグの選手
因みに、高卒の新人投手で新人王になった選手は打者に比べて結構多いです。
昭和37年に、29歳の若さで選手兼任監督に就任
中西さんは、昭和37年から西鉄ライオンズの選手兼任監督になります。監督2年目の昭和38年には、14.5ゲーム差をつけられていましたが、大逆転してリーグ優勝しています。
因みに、日本シリーズは、3勝4敗で巨人に敗れました。
短かかった全盛時代 通算打率は.307を記録
中西さんは、実働18年ですが、本当に活躍したのは、入団から7年間と短いです。(7年間のみ、規定打席に到達)
理由は、腱鞘炎でバットが振れなくなり、野球人生を縮めてしまいました。
腱鞘炎になってからは、フル出場できず、主に代打として、活躍しました。
ただ、最終的に、通算打率の評価の対象になる4000打数には到達して、通算打率.307は、歴代11位となっています。
因みに、選手時代の晩年は、通算打率を落とすのが嫌で、あまり試合に出たがらなかったと、板東英二さんの著書に書いてありました。(^^)/~~~
名打撃コーチとして、数々のチームを渡り歩く
中西さんは、監督よりも、打撃コーチとしての評価が高いです。自らが大打者であったのと同時に、選手を育てることにも長けていたようです。
特に、三原脩監督時代のヤクルトスワローズ時代には、168㎝の大打者こと、若松勉選手を育てたことで有名です。
青田昇さんの著書によると、すぐにテクニックを教える最近の打撃コーチとは違い、基本を大切にじっくりと教える指導法のようです。
三原脩の娘と結婚
中西さんは、実は、三原脩監督の娘さんと結婚しています。
中西太選手の年度別打撃成績
年度 | 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 |
昭和27 | 111 | 108 | .281 | 12 | 65 |
昭和28 | 120 | 146 | .314 | 36 | 86 |
昭和29 | 130 | 146 | .296 | 31 | 82 |
昭和30 | 135 | 157 | .332 | 35 | 98 |
昭和31 | 137 | 150 | .325 | 29 | 95 |
昭和32 | 132 | 154 | .317 | 24 | 100 |
昭和33 | 126 | 127 | .314 | 23 | 84 |
昭和34 | 59 | 45 | .294 | 7 | 29 |
昭和35 | 32 | 17 | .362 | 1 | 10 |
昭和36 | 99 | 77 | .304 | 21 | 54 |
昭和37 | 44 | 19 | .268 | 2 | 11 |
昭和38 | 81 | 61 | .282 | 11 | 26 |
昭和39 | 33 | 6 | .150 | 0 | 4 |
昭和40 | 34 | 15 | .294 | 2 | 9 |
昭和41 | 51 | 14 | .275 | 6 | 15 |
昭和42 | 32 | 10 | .278 | 3 | 9 |
昭和43 | 26 | 10 | .400 | 1 | 8 |
昭和44 | 6 | 0 | .000 | 0 | 0 |
合計 | 1388 | 1262 | .307 | 244 | 785 |
中西太選手の通算成績
身長 | 174cm | |
体重 | 93kg | |
利き腕 | 右投げ右打ち | |
守備位置 | 三塁手 | |
背番号 | 6 | |
所属球団 | 西鉄ライオンズ | |
実働 | 18年 | |
試合 | 1388 | |
打席 | 4645 | |
打数 | 4116 | |
安打 | 1262 | |
二塁打 | 207 | |
三塁打 | 38 | |
本塁打 | 244 | |
塁打 | 2277 | |
打点 | 785 | |
得点 | 673 | |
盗塁 | 142 | |
盗塁死 | 81 | |
四球 | 481 | |
三振 | 624 | |
打率 | .307 | 歴代11位 |
出塁率 | .379 | |
長打率 | .553 | |
最多安打 | 2回 | |
首位打者 | 2回 | |
本塁打王 | 5回 | 5回獲得は4位タイ |
打点王 | 3回 | |
MVP | 1回 | 昭和31年 |
新人王 | 受賞 | 昭和27年 |
ベストナイン賞 | 7回 | 三塁手部門 |
ゴールデングラブ賞 | ー |