プロ野球選手

17歳でデビュー!豪速球だけで20勝した怪童、尾崎行雄の成績

プロ野球には、過去速い球を投げたピッチャーが沢山います。

黎明期に大リーグ選抜チーム相手に、ベーブルース•ルーゲーリッグから伸びのある速球で三振を奪った伝説の投手沢村栄治。

国鉄という弱小チームで、14年連続20勝し、長嶋茂雄をデビュー戦で4打席4三振させた金田正一。

そして、速い球を語る上で必ずあがる投手がいます。その投手こそ、今回紹介する尾崎行雄投手です。(^.^)/~~~

尾崎投手は、高校2年の夏の甲子園で優勝したあと、高校を中退し、東映フライヤーズに入団します。

17歳ながら、プロの打者相手に豪速球を武器にきりきり舞いさせました。

甲子園優勝投手 法政二高の柴田勲がライバル


尾崎さんは、昭和19年に大阪府泉大津市に生まれます。元々は左利きでしたが、小学5年生で右利きに転向します。

高校は、浪商高校に進学します。

高校1年からエースになり、昭和35年夏、昭和36年春、昭和36年夏と3季連続して甲子園に出場します。

法政二高の柴田勲投手とはライバルとよばれて、3季連続して対戦しました。

1年生の夏は2回戦で当たり0-4の完封負け。

2年生の春は準々決勝で当たりますが、先制しながら逆転され1-3でまたも負けてしまいます。

最後の対戦となった2年生の夏は、準決勝で対決。9回に2点差を追いつき、延長戦で4-2でとうとう法政二高に勝ちます。

その勢いで決勝でも桐蔭高をを1-0で破り見事全国制覇。(o^^o)

チームメイトには、1年上に捕手の大塚弥寿男、三塁手に大熊忠義、二塁手に住友平、1年下に外野手の高田繁など、のちにプロ野球で活躍する選手がそろっていました。

因みに、もうすでに150キロ以上のスピードボールを投げており、尾崎さんが怪童と呼ばれるようになったのはこの頃からです。

因みに、打者で怪童と呼ばれた西鉄ライオンズ中西太選手の記事もどうぞ!↓
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若干17歳でデビュー。20勝で新人王に輝く

甲子園の優勝投手となった尾崎さんの元には、高校2年生でしたが、各球団のプロのスカウトが訪れます。

東映フライヤーズを選ぶことになりますが、尾崎さんが監督水原のファンだったことや、浪商の先輩である山本八郎、張本勲選手がいたことが決め手になりました。

高校2年ですでにプロのスカウトが家に来るなんて信じられないニャー!

さて、高校を2年で中退して、東映フライヤーズに入団した尾崎投手ですが、豪速球を武器にオールスターまでに前半だけで18勝を記録します

4月29日の西鉄ライオンズ戦では、8連続奪三振も記録しました!

当時のパリーグの強打者である山内一弘、野村克也、榎本喜八などが、

「ボールが途中から消える」

「ボールが横ブレしながら唸りを生じて襲ってくる」という証言があります。

後半はバテがきたのか2勝しかできませんでしたが、シーズンが終わると20勝をあげて新人王を受賞しました。

高校を2年で中退してプロ野球に入団したので、実質的には、高校3年生が、プロ野球で20勝したことになります。

実力があっても高校を中退してプロ野球でプレーするのは勇気がいること。

今は少ないけど、昭和30年代当時は高校を中退してプロ野球に入団した選手は沢山いたんだよ。

チームもリーグ優勝。日本シリーズでもセリーグの覇者、阪神タイガースを4勝2敗で破り日本一になりました。

当時のパリーグの強打者、野村克也選手の記事はこちらです!↓(^.^)/~~~
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豪速球で23歳までに20勝4回。奪三振王2回。

尾崎投手は、2年目の昭和38年こそ7勝でしたが、昭和39年から復活。3年連続して20勝をあげます。

昭和40年には、リーグ最多の61試合に登板。27勝して、最多勝のタイトルも獲得。

昭和39年、昭和40年と、197個、259個で2年連続の奪三振王。

投球内容はほとんどがストレートだったのですが、球種は少なくても、とにかくストレートの威力が凄く、プロの打者をきりきり舞いさせて、勝星を積み重ねました。

当時はスピードガンは、ありませんが、急速は常時155キロはでていた言われています。

本人いわく、「僕は球は速かったが、コントロールがよくなかった。外角低めに狙ったのが内角高めにいくのはザラでした。」

とか、「相手のデータをみても、狙ったところに投げられないから見ても意味がないですよ」と話しています。

さらに、毎日投げていたのでコンディションづくりなんてなかった」とも話しています。

事実、昭和40年には、378投球回も投げており、結局酷使が原因で肩を痛めてしまうことになります。

プロ入りから5年間で98勝しましたが、後半7年間では9勝しかあげられませんでした。

通算107勝、29歳の若さで引退

鍼、灸、サウナ、マッサージなど、良いといわれるところは全て出かけていきました。

しかし、結局肩の痛みは治らず、29歳の若さで引退することになります。

過去、プロ野球では、稲尾和久投手はじめ、沢山のピッチャーたちが酷使の為に引退に追い込まれました。

尾崎投手も残念ながらそういうプロ野球人生でした。

ただ、プロ入団5年間で、4回の20勝投手となり、活躍した期間は短かったですが、間違いなく球史にのこる豪球投手だったことは間違いありません。

通算200勝を達成しても、1回も20勝できなかった投手もいることを考えると、ある意味大投手ともいえます。

プロ通算12年間で364登板。107勝83敗。通算防御率は2.70でした。

尾崎行雄投手の年度別投手成績

年度 勝利 敗戦 投球回 奪三振 防御率
昭和37 20 9 207.2 196 2.42
昭和38 7 5 93 60 2.90
昭和39 20 18 286 197 2.55
昭和40 27 12 378 259 1.88
昭和41 24 17 292 122 2.62
昭和42 6 14 126.2 67 3.05
昭和43 0 0 19 4 6.16
昭和44 0 2 17.1 6 5.82
昭和45 0 2 43 41 5.86
昭和46 0 3 40.1 26 4.50
昭和47 3 1 39.2 29 2.25
昭和48 0 0 6 3 13.50
合計 107 83 1548.2 1010 2.70

尾崎行雄投手の通算成績

身長 176cm
体重 83kg
利き腕 右投げ右打ち 小学5年時に右利きに転向
守備位置 投手
背番号 19
所属球団 東映フライヤーズ
実働 12年
登板 364
先発 163
完投 73
完封 21
無四球 15
勝利 107
敗戦 83
勝率 .563
投球回 1548.2
与四球 349
奪三振 1010
防御率 2.70
最多勝 1回 昭和40年
最優秀防御率 0回
最多奪三振 2回 昭和39、40年
最高勝率 0回
MVP 0回
沢村賞 当時はセリーグのみ対象
ベストナイン 1回
ゴールデングラブ賞 0回