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【甲子園最強打者】清原和博選手の成績   通算525本塁打 

今までこのサイトで、色々なスター選手を紹介してきました。

甲子園では、過去に色々なスター選手が登場しています。

今回は、その甲子園に5期連続出場。甲子園最多となる通算13本塁打。

エースの桑田真澄投手とKKコンビと言われ、PL学園の黄金時代をきづき、さらにはプロ入り後も、西武ライオンズの黄金時代の4番打者として活躍し続けたた清原和博選手を紹介します。

清原選手は、プロ入り入団1年目から31本塁打を放ち、以後、右打者ながらライトにもホームランを打てるバッターとして活躍しました。

とにかくチャンスに強く、オールスターゲームでも最多の7回のMVPも受賞しています。

「甲子園は清原のためにあるのか!」

清原が初めて甲子園に出場したのは、高校1年生、昭和58年の夏でした。1年生ながら名門PL学園の4番にすわり、以後、5期連続して甲子園に出場することになります。

PL学園に入学したときは、投手もやっていましたが、同期の桑田真澄投手のピッチングをみて、かなわないと思い、打者に専念することになります。

まず、結論からいうと、5回出場した甲子園で、

甲子園 結果 打率
1年生・夏
1983
優勝 23-7安打
➀ .304
2年生・春
1984
準優勝 17-8安打
➂ .471
2年生・夏
1984
準優勝 21-10安打
➂ .476
3年生・春
1985
ベスト4 14-5安打
➀ .357
3年生・夏
1985
優勝 16-10安打
⑤ .625
甲子園
通算成績
優勝 2回
準優勝 2回
ベスト4
1回
91-40安打
⑬.440

1年生の夏と3年生の夏の2回優勝。

準優勝2回。ベスト4が1回。

甲子園で打った通算のホームランが13本。

高校2年の夏の享栄高戦では、1試合で3本塁打。(2人しか記録していない)

3年生夏の宇部商との決勝戦では、この日2本目のホームランを打ったさいに、植草貞夫氏の、

「甲子園は、清原のためにあるのか!」

という実況まで飛び出した程でした。

因みに、清原和博と、エースの桑田真澄とのコンビは、KKコンビといわれて、のちに2人ともプロ野球で大活躍することになります

「【甲子園で戦後最多の通算20勝】巨人 桑田真澄投手の成績」はこちら

これは余談ですが、清原も元々投手をやっていたので、本人がどうしても甲子園で投げてみたかったのでしょう。中村順司監督に懇願して、大量得点差が開いた試合で投手としても登板しました。

清原の投手としての登板↓

甲子園 対戦相手 投球回数 安打 奪三振
3年生・春
1985
浜松商 1回と3分の2 0 2
3年生・夏
1985
東海大山形高 2回と3分の2 0 1

昭和60年秋のドラフト会議で西武ライオンズに入団

 

さて、清原選手を語るときに、どうしても書いておかなくてはならないことがあります。

それは、元々清原選手は、大の巨人ファンで、巨人に入団することを心から望んでいました。

実際、巨人のスカウトも清原選手にいち早く目をつけていて、ドラフト会議では1位指名をすると本人に伝えていました。

しかし、昭和60年秋のドラフト会議では、巨人は清原選手を指名せずに、チームメイトの桑田真澄投手を強行1位指名しました。

因みに、このときの巨人の監督は、清原選手が尊敬する王貞治氏でした。

このときから、清原選手は、

「巨人と王監督にに裏切られた」

という気持ちを持ち続けることになります。

後年、清原選手は、フリーエージェント制度で西武ライオンズから巨人に移籍することになるのですが、そのときに、巨人の関係者に、

「10年前のこと、謝ってもらえませんか」

と話したというエピソードが残っています。

結局、昭和60年のドラフト会議では、巨人を除く6球団から指名されます。抽選の結果、西武ライオンズが交渉権を獲得。

西武ライオンズの清原和博選手が誕生しました。

昭和61年に新人最多の31本塁打

さて、西武ライオンズに入団した清原選手ですが、

新監督、森まさあき監督の元、高卒の新人ながら1年目からレギュラーとなり活躍します。

開幕2戦目の南海選手。プロ初打席は四球。2打席目には藤本修二投手から早くもプロ初本塁打。

前半戦は終わった時点では11本塁打でしたが、後半戦は、プロの投手に慣れてきたのか、後半戦だけで20本塁打をうち、シーズンを通して31本塁打。

新人で31本塁打は、高卒、大卒、社会人を含めても令和3年の現在でも新人記録です。(昭和34年、大洋の桑田武も31本でタイ記録)

シーズン終了間際には、打率も3割だいをキープしていました。この年は、試合数が130試合で、129試合が終わった時点で打率が.301でした。

最終戦に安打がでないと3割をきってしまいます。

森監督から、「休んでもいいよ」といわれましたが、清原は出場して3安打。.304でシーズンを終えました。文句なしな新人王です。

主な高卒選手(ホームランバッター)の新人(1年目)の成績↓

選手名 試合 打率 本塁打 打点
中西太 111 .281 12 65
王貞治 94 .161 7 25
清原和博 126 .304 31 78
松井秀喜 57 .223 11 27

この表を見ると、ホームランバッターとして活躍した選手を比べてみると、新人でこれだけの成績を残した清原は最も完成度の高かった選手ということがわかります。

4番打者として西武ライオンズの黄金時代に貢献

清原選手が入団した西武ライオンズは、森監督の元、常勝チームとして黄金時代をむかえています。

森監督時代 結果
昭和61年~63年 3年連続日本一
平成元年 3厘差で3位
平成2年~4年 3年連続日本一
平成5~6年 2年連続リーグ優勝

清原選手は、タイトルこそ獲得できませんでしたが、常勝チームの4番打者としてチームバッティングに徹して貢献しました。

森監督も、「彼はタイトルを獲得してないことを指摘されるが、チームの勝利に貪欲だった」

と語っており、PL学園時代の中村順司監督や、移籍した巨人の長嶋茂雄監督も、同じような内容の発言をしています。

タイトルを獲得していないといっても、毎年ホームランを30本前後、打点も90打点前後を記録し、立派な成績をのこしています。

大舞台に強く、オールスターで7回のMVP 通算525本塁打

清原選手は、公式戦の通算打率は.272ですが、

チャンスに強いのが特徴です。

通算サヨナラ安打 20本

通算サヨナラ本塁打 12本

オールスターゲームMVP 7回

は日本記録。

他の記録としては、通算1955三振、通算196死球も日本記録

清原和博選手の年度別打撃成績

年度 試合 安打 打率 本塁打 打点
昭和61 126 123 .304 31 78
昭和62 130 115 .259 29 83
昭和63 130 129 .286 31 77
平成1 128 126 .283 35 92
平成2 129 134 .307 37 94
平成3 126 121 .270 23 79
平成4 129 134 .289 36 96
平成5 128 120 .268 25 75
平成6 129 127 .279 26 93
平成7 118 99 .245 25 64
平成8 130 125 .257 31 84
平成9 130 115 .249 32 95
平成10 116 103 .268 23 80
平成11 86 62 .236 13 46
平成12 75 64 ..296 16 54
平成13 134 139 .298 29 121
平成14 55 47 .318 12 33
平成15 114 99 .290 26 68
平成16 40 23 .228 12 27
平成17 96 68 .212 22 52
平成18 67 45 .222 11 36
平成19 出場無し
平成20 22 4 .182 0 3
合計 2338 2122 .272 525 1530

清原和博選手の通算成績

身長 188cm
体重 128kg
利き腕 右投右打
守備位置 一塁手・三塁手
背番号 西武時代 3
巨人時代 5
オリックス時代 5
所属球団 西武ライオンズ
(11年間)
読売ジャイアンツ
(9年間)
オリックス・バファローズ
(3年間)
実働 22年
試合 2338
打席 9428
打数 7814
安打 2122
二塁打 345
三塁打 12
本塁打 525 5位
塁打 4066
打点 1530 6位
得点 1280
盗塁 59
盗塁死 31
四球 1346
死球 196 1位
三振 1955 1位
打率 .272
出塁率 .389
長打率 .520
最多安打 0回
首位打者 0回
本塁打王 0回
打点王 0回
MVP 0回
ベストナイン賞 3回
ゴールデングラブ賞 5回