高校野球で怪物と呼ばれた選手は結構多いです。
しかし、歴史の長い甲子園でも、いまだにナンバーワン投手といわれ、数々の記録をつくり、1番怪物という名称がふさわしいのは、おそらくこの人で、しょう。
高校野球で豪速球を武器に、公式戦で完全試合2回、ノーヒットノーランを9回も記録。
36イニング連続無安打無失点、など驚異的な記録をつくり、空白の1日で世間の人たちをあっといわせるやり方で巨人に入団。
プロ入り後もなにかと騒がれ続けながらも巨人のエースとして活躍し、オールスターゲームでの8連続奪三振など、活躍しつづけた江川卓投手を今回紹介します。
ふっく
埼玉在住の会社員。好きな野球のブログを2019年から続けている。
当サイトで、主にプロ野球選手を1人づつとりあげたり、ネタにしている。
空白の1日で巨人に入団
まずは、あまりにも有名な「空白の一日」の詳細を書きます。
高卒(作新学院)では阪急ブレーブスのドラフト1位、大卒(法政大学)ではクラウンライターライオンズのドラフト1位に指名された江川投手ですが、いずれも入団を拒否しています。
江川投手は、少年時代巨人ファンで、長嶋茂雄、王貞治両選手の全盛時代でした。
江川投手はどうしても巨人に入りたかったのでしょう。のちに、「空白の1日」と呼ばれるやり方で、強引に巨人に入団することとなります。
わかりやすく説明すると、
前年1977年のドラフト会議(11月22日)でクラウンライターライオンズからドラフト1位に指名された交渉権は1978年のドラフト会議(11月22日)の前々日(つまり2日前の11月20日)に喪失することになっています。
その盲点をついて、1978年のドラフト会議前日(11月21日)なら、自由に他球団(ライオンズ以外の球団)と交渉できると主張して、読売ジャイアンツと契約したと発表したのでした。
因みに、何故、前年からの交渉権が翌年のドラフト会議前日に喪失ではなく前々日に喪失すると決まっているのかは、単純に交通的に移動に時間がかかるために、移動日のために、1日あけてあるというのが理由であり、多くの人の認識でした。
ある意味、ドラフト会議の盲点をついたともいえるかもしれませんが、見方を変えると単純にルール違反をしたともいえます。
事実、セントラル・リーグ事務局は、即時にこの契約を無効として、江川の選手登録を却下しました。
しかし、巨人はそれに抗議し、翌日の1978年ドラフト会議をボイコットまでしてしまいます。
結局、巨人不在のままドラフト会議は行われて、江川はまたしてもドラフト1位で指名され、抽選の結果、阪神タイガースが交渉権を獲得します。
巨人は、「12球団が出席していないドラフト会議は無効である」として阪神の江川に対する交渉権をみとめません。
この問題はこじれにこじれたのですが、最終的にはコミッショナー金子の「強い要望」により、
1979年1月31日に江川は交渉権をもつ阪神と契約を結び、一旦阪神に入団した上で、巨人の小林繁投手と交換トレードで巨人に移籍することで落ち着きました。
結論からいうと、江川投手は念願の巨人に入団はできたものの、プロ入り後もダーティーなイメージがつきまといました。
未だに、入団の件を納得していないファンも存在します。
高校時代に完全試合2回、ノーヒットノーラン9回

江川投手は、福島県いわき市にうまれます。
父親の仕事の関係で静岡県に移り住み少年時代をすごします。
天竜川で石投げをすると石は対岸までとどき、毎日石を投げるのが日課になり、肩が鍛えられました。
中学2年になると父親の転勤で栃木県小山市に転居。小山県立小山中学校で投手として県大会優勝します。
高校は、いくつかの高校からさそわれますが、東京六大学野球の早慶戦にでる夢があり、進学コースのある作新学院に入学しました。
作新学院に入学すると、高校生ばなれした豪速球と縦に割れるカーブをぶきに、超高校級のエースとして数々の記録をつくります。
公式戦で完全試合2回、ノーヒットノーラン9回、20完封、36イニング連続無安打無失点、防御率0.41。
特に、高校3年の選抜高等学校野球大会では、現在でも破られていない1大会最多の60奪三振。8連続奪三振を記録。
(因みに、夏の甲子園の1大会奪三振記録は、徳島商業の板東英二の83奪三振)
練習試合を含めると、何と145イニング無失点など、怪物のニックネーム通りの活躍ぶりでした。
ただし、春の選抜は準決勝で広島商業に、夏の甲子園は2回戦で対銚子商業に延長12回1死満塁から押し出しのサヨナラ負けで、惜しくも優勝はにがしています。
甲子園 | 完投 | 勝利 | 敗戦 | 投球回 | 奪三振 |
昭和48年 春 | 3 | 3 | 1 | 33 | 60 |
昭和48年 夏 | 2 | 1 | 1 | 26.1 | 32 |
昭和56年に20勝してMVP 投手五冠王
さて、ルーキーの昭和54年こそ6月からのデビューで9勝どまりでしたが、怪物のニックネームどおり、徐々に力を発揮し始めます。
2年目の昭和55年には16勝をあげて最多勝。219奪三振で奪三振王。
3年目の昭和56年には、11連勝を含む20勝を達成。
最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多完封勝利、最多奪三振とタイトルを独占。
打者の三冠王にあたる、6人目の投手五冠王を獲得しました。
MVPも江川投手が受賞しましたが、沢村賞は、何故か江川投手より成績の劣る、西本聖投手が受賞しました。
一説には、プロ入団の一件が影響して、江川に票を入れなかったという記者が多くいたと言われています。
この年の沢村賞は疑問視され、翌年からは、新聞記者の投票ではなく、過去の名投手が選出する選定方法に変わっています。
昭和56年の、江川卓と西本聖の成績の比較↓
投手名 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 奪三振 | 防御率 |
江川卓 | 20 | 6 | .769 | 221 | 2.29 |
西本聖 | 18 | 12 | .600 | 126 | 2.58 |
チームも江川の他に、西本聖、中畑清、篠塚利夫、ルーキーの原辰徳などの活躍でリーグ優勝。
対日本ハム戦の日本シリーズでも、江川、西本の両エースが2勝づつあげて、8年ぶりに日本一に輝きました。
江川投手の球速

江川投手の球の速さは、高校時代が1番速かったと言われています。
当時、スピードガンはありませんが、160キロはでといたのではないかといわれています。
何しろ、甲子園で相手打者が、江川投手の球をファウルにしただけで観客がどよめいたくらいです。
のちに、巨人でライバルとなる西本聖投手も、高校時代の練習試合で江川投手となげあったことがありますが、
「ボールがホップするというのは本当だった」
と語っています。
プロ入り後は、時速154キロが最高でしたが、
もし江川投手が大学に進学せずに、高卒でプロ野球に入団していたらもっと活躍し、記録ものびていたのではないかといわれています。
昭和59年のオールスターで8連続奪三振
江川投手は、昭和59年のオールスターゲームで、
パ・リーグの強打者相手にだん8連続奪三振を記録しました。
この記録は、江夏豊投手が、昭和46年につくった9連続奪三振につぐものです。
「伝説のサウスポー!江夏豊投手の成績!年間401奪三振」の記事はこちら
ナゴヤ球場のオールスターゲーム第3戦。2番手で4回から登板しました。
守備位置 | 選手名 | 内容 | 奪三振 |
2番センター | 福本豊 | 直球見逃し | 初奪三振 |
3番ライト | 蓑田浩二 | カーブ見逃し | 2連続 |
4番ファースト | ブーマー | 直球空振り | 3連続 |
5番レフト | 栗橋茂 | カーブ空振り | 4連続 |
6番サード | 落合博満 | 直球空振り | 5連続 |
7番ショート | 石毛宏典 | カーブ空振り | 6連続 |
8番キャッチャー | 伊東勤 | カーブ空振り | 7連続 |
代打 | クルーズ | 直球空振り | 8連続 |
1番セカンド | 大石大二郎 | セカンドゴロ | 9人目でストップ |
最後の9人目の打者、近鉄バファローズの大石大二郎選手に二塁ゴロを打たれて記録はストップしました。
しかし、江川投手が対戦した打者たちは、落合、クルーズ、ブーマーなど、パリーグでタイトルを獲得した強打者揃い。
3冠王の落合博満選手も、
「現在の投手の中で1番速い。何故公式戦であれだけ打たれるのかわからない」
と語っていました。
【史上唯一3冠王を3回獲得】打撃の職人 落合博満選手の成績 の記事はこちら
球種に名前をつける コシヒカリ マスクメロン
江川投手は、遊び心もあり、自分の球種に名前を付けたこともあります。
まずスライダーを「コシヒカリ」と命名しました。
そうしたら、本当に各地からコシヒカリが届きました。(^^;
さらに、気をよくして次にチェンジアップを「マスクメロン」と命名しました。
そうしたら、各地から「マスクメロン」がどっさり届きました。(^^:
さらに続けて、カーブとスライダーの中間のボールを
「マツタケライダーがいいか、それともストロベリーボールにしようか」
といっていましたが、
「あんまり色々贈られても申し訳ないから今度は簡単にスラーブにしておこうか」
と話していました。
昭和62年に13勝をあげながら突然引退
江川投手は、入団2年目から8年連続2桁勝利をつづけていたにもかかわらず、昭和62年のシーズン終了後に、突然引退を表明します。
理由は肩の痛みということですが、まだ32歳という年齢めあり、早すぎる引退でした。
江川本人も、翌年から巨人が本拠地を後楽園球場から東京ドームになうつし、ドームで投げることを楽しみにしていましたが、かないませんでした。
通算の勝利数は135勝と、騒がれて入団されたわりには物足りない勝ち星でしたが、9年間での数字なので、1年平均にすると毎年15勝をあげた計算になります。
因みに、入団の時に、トレードの相手となった小林繁投手は通算で139勝で、昭和58年オフに引退しています。
江川卓投手の年度別投手成績
年度 | 勝利 | 敗戦 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
昭和54 | 9 | 10 | 161 | 138 | 2.80 |
昭和55 | 16 | 12 | 261.1 | 219 | 2.48 |
昭和56 | 20 | 6 | 240.1 | 221 | 2.29 |
昭和57 | 19 | 12 | 263.1 | 196 | 2.36 |
昭和58 | 16 | 9 | 217.2 | 131 | 3.27 |
昭和59 | 15 | 5 | 186 | 112 | 3.48 |
昭和60 | 11 | 7 | 167 | 117 | 5.28 |
昭和61 | 16 | 6 | 194 | 119 | 2.69 |
昭和62 | 13 | 5 | 166.2 | 113 | 3.51 |
合計 | 135 | 72 | 1857.1 | 1366 | 3.02 |
江川卓投手の通算成績
身長 | 183cm | |
体重 | 90kg | |
利き腕 | 右投右打 | |
守備位置 | 投手 | |
背番号 | 阪神3 巨人30 |
|
所属球団 | 阪神・巨人 | |
実働 | 9年 | |
登板 | 266 | |
先発 | 252 | |
完投 | 110 | |
完封 | 27 | |
無四球 | 23 | |
勝利 | 135 | |
敗戦 | 72 | |
勝率 | .652 | |
投球回 | 1857.1 | |
与四球 | 443 | |
奪三振 | 1366 | |
防御率 | 3.02 | |
最多勝 | 2回 | |
最優秀防御率 | 1回 | |
最多奪三振 | 3回 | |
最高勝率 | 2回 | |
MVP | 1回 | |
沢村賞 | 0回 | |
ベストナイン | 2回 | |
ゴールデングラブ賞 | 0回 |