さて、日本のプロ野球は、今まで何百人の強打者、好打者をうんできました。
そんな多くの強打者たちが目指すものに3冠王があります。
首位打者をとるには センスやテクニック
本塁打王をとるには ボールを飛ばす能力や長打力
打点王をとるには 勝負強さやチームメイトの協力
が必要で、なにより運も見方につけなければなりません。
過去、プロ野球では、7人の打者がこの栄誉に輝いています。
その中でも3冠王を3回も獲得したのはこの人以外にいませんよね!(o^^o)
25歳という遅いプロ入りながら、ロッテオリオンズで3回の3冠王という偉業をなしとげ、日本初の1億円プレーヤーとなり、中日、巨人、日本ハムと4球団で活躍した落合博満選手を紹介します。
落合選手は、オレ流といわれながらもバッティグ技術を極めて、ほとんど期待されない入団ながらも大打者となり20年間活躍しつづけました。
この記事を読めば、落合選手のプロ入りまでの経緯や、プロ入り後の活躍がよくわかります。
ふっく
埼玉在住の会社員。好きな野球のブログを2019年から続けている。
当サイトで、主にプロ野球選手を1人づつとりあげたり、ネタにしている。
東洋大学を中退してプロボウラーを目指す
秋田県に7人兄弟の末っ子として生まれます。
巨人の長嶋茂雄選手のファンで、ファンレターをだしたこともあったほどです。
秋田県立秋田工業高等学校に進学。しかし、上級生からかなり理不尽にしごかれ退部します。
しかし、落合以上に実力のある選手が他におらず、試合前になると、部員たちに説得され復帰します。結局、退部と復帰を7回も繰り返します。
高校時代は、野球の練習よりも映画館で映画を観ている時間のほうが長いほどでした。
その後、東洋大学に進学。しかし、大学でも、体育会系の慣習に納得できず、半年で野球部を退部し、大学自体も辞めてしまいます。
秋田に帰郷後、運動神経が良かったのでボウリング場でアルバイトをして、プロボウラーを目指した時期もありました。
東芝府中から25歳でドラフト3位でロッテに入団
その後、母校を訪ねた際に、才能を惜しんだ恩師の勧めもあり、東京芝浦電気の府中工場に入社。
昼間はトランジスタラジオの基盤を組み立て、夕方から野球の練習というルーチンでした。
そして、昭和53年のドラフト会議で、ロッテオリオンズからドラフト3位での指名を受け入団します。
因みに、この年のドラフト会議では、巨人は江川事件の最中で会議をボイコットしています。もし巨人がドラフト会議に参加していたら、落合を指名していたという話もあります。
遅いプロ入団であったために、落合選手は
「25歳のプロ入りだからどう頑張っても王さんの本塁打記録は抜けない。通算記録に興味はなかった」と語っています。
さらに、当時のロッテの山内一弘監督や、前監督の金田正一氏に、
「あのアッパースイングじゃ打てん」
などといわれてある意味最悪のスタートでした。
入団4年目に27歳で史上最年少の3冠王に

しかし、ことバッティングのことに関しては真剣で、ロッテの先輩捕手、土肥健二選手の手首の使い方を参考にするなど、貪欲にとりくみます。
1年目は1軍で36試合に出場。2本塁打。
2年目は、2軍で5試合連続本塁打のイースタンリーグ記録をつくり、前期終盤に1軍に定着。
57試合で15本塁打。
入団3年目の昭和56年には開幕戦から起用され、初めて規定打席に到達。打率.326で首位打者のタイトルを獲得。
入団4年目の昭和57年にはさらに成績をのばし打率.325 32本塁打、99打点で28歳の若さで3冠王を獲得しました。
それまで野村克也選手が3冠王を獲得したのが昭和40年で入団13年目。
王貞治が3冠王を初めて獲得したのが昭和48年で入団15年目。
それに比べると、運も良かったかもしれませんがかなり早い段階で3冠王を獲得したことになりますね!


ロッテの主砲して3冠王を3回獲得

さて、27歳で初の3冠王に輝いた落合選手ですが、そのときは
「もう1度とろうとは思わなかった」と語っています。
しかし、昭和59年に阪急ブレーブスの外国人選手ブーマー・ウェルズが3冠王を獲得して、1人の選手にタイトルを独占され刺激をうけて、もう1度3冠王を狙う決意をします。
昭和60年には打率.367、52本塁打、146打点と文句のつけようのない成績で2回目の3冠王に輝きました。
この年の得点圏打率は.492で日本記録。
昭和61年にも打率.360、50本塁打、116打点で2年連続、通算3回目の3冠王を獲得しました。
3回の3冠王は、あの世界の王貞治選手ですら達成できなかった快挙で、長い歴史を誇るメジャーリーグでも2回獲得したのが最高で誰もなしとげていませんでした。
落合博満選手といえば3冠王が代名詞といわれるようになったのもごく自然というか当然のことですね。(o^^o)
因みに、この昭和61年にのこした出塁率は.487で、昭和60年の出塁率も.481。ほぼ2年間、半数ちかくは出塁していたことになります。
さらに、2年連続で50本塁打以上もいまだに落合選手1人だけです。当時のロッテオリオンズの本拠地が狭かった川崎球場ということを除いてもその希少性がわかります。
史上初の1億円プレーヤーになる

それだけ活躍すると、当然のように年俸もあがっていきます。
昭和61年のオフにロッテと中日との1対4のトレードで中日に移籍後すると、年俸9700万円が1億3000万円にUPして日本人初の1億円プレーヤーになります。
いまでこそ、1億円プレーヤーは各球団にゴロゴロしていて珍しくも何ともありませんが、
昭和62年当時、1億円プレーヤーはこの落合博満選手と、西武ライオンズのエース、東尾修選手の2人だけでした。
落合選手の功績は、本人も語っていますが、ただ単に打撃成績で球史に名を残しただけでなく、プロ野球全体の年俸を底上げしたことも忘れてはなりません。
トレードで中日ドラゴンズに移籍
さて、初のセリーグでもある中日ドラゴンズに移籍しても落合選手は活躍しました。
ホームランこそ、前年の50本から28本と減らしましたが、打率は.331でリーグ3位の成績。
翌年の昭和63年には、打率が.293と8年ぶりに3割を切ったものの、チームは星野仙一監督の元、6年ぶりのリーグ優勝。
落合選手自身、プロ入団してから10年目で、初のリーグ優勝を経験します。
(日本シリーズは西武ライオンズに1勝4敗で敗退)
平成元年には116打点で打点王。平成2年には34本塁打、102打点の2冠王。
大打者はリーグが違っても全く関係がないことを証明しました。
フリーエージェント制度で巨人に移籍

その後、中日ドラゴンズで活躍をつづけていた落合選手ですが、平成5年のオフにに日本プロ野球にフリーエージェント制度が導入され、行使して巨人に移籍することになります。
当時の巨人の監督は、落合選手が少年時代憧れた長嶋茂雄監督でした。
この年の巨人は、前半戦は好調で、チームは首位を独走しますが、後半戦失速し、とうとう最終戦を前に、高木守道監督の中日に並ばれてしまいます。
しかし、中日ドラゴンズとの最終戦を勝ち、リーグ優勝を決めると、日本シリーズでも、槙原寛己投手の2完投勝利などもあり、4勝2敗で日本一になりました。
長嶋茂雄監督は、この1994年の優勝の勝因を聞かれると、「落合効果でしょう」と答えています。
落合博満選手の年度別打撃成績
年度 | 試合 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 年棒 |
昭和54 | 36 | .234 | 2 | 7 | 360万 |
昭和55 | 57 | .283 | 15 | 32 | 360万 |
昭和56 | 127 | .326 | 33 | 90 | 540万 |
昭和57 | 128 | .325 | 32 | 99 | 1600万 |
昭和58 | 119 | .332 | 25 | 75 | 5400万 |
昭和59 | 129 | .314 | 33 | 94 | 5940万 |
昭和60 | 130 | .367 | 52 | 146 | 5940万 |
昭和61 | 123 | .360 | 50 | 116 | 9700万 |
昭和62 | 125 | .331 | 28 | 85 | 1億3千万 |
昭和63 | 130 | .293 | 32 | 95 | 1億3千万 |
平成1 | 130 | .321 | 40 | 116 | 1億3千万 |
平成2 | 131 | .290 | 34 | 102 | 1億6千5百万 |
平成3 | 112 | .340 | 37 | 91 | 2億2千万 |
平成4 | 116 | .292 | 22 | 71 | 3億 |
平成5 | 119 | .285 | 17 | 65 | 2億5千万 |
平成6 | 129 | .280 | 15 | 68 | 3億8千万 |
平成7 | 117 | .311 | 17 | 65 | 3億8千万 |
平成8 | 106 | .301 | 21 | 86 | 3億8千万 |
平成9 | 113 | .262 | 3 | 43 | 3億 |
平成10 | 59 | .235 | 2 | 18 | 3億 |
合計 | 2236 | .311 | 510 | 1564 |
落合博満選手の通算成績
身長 | 178cm | |
体重 | 82kg | |
利き腕 | 右投右打 | |
守備位置 | 一塁手 二塁手 三塁手 |
|
背番号 | ロッテ時代6 中日時代6 巨人時代60と6 日本ハム時代3 |
|
所属球団 | ロッテ・8年 中日・7年 巨人・3年 日本ハム・2年 |
|
実働 | 20年 | |
試合 | 2236 | |
打席 | 9257 | 14位 |
打数 | 7627 | |
安打 | 2371 | 12位 |
二塁打 | 371 | |
三塁打 | 15 | |
本塁打 | 510 | 6位 |
塁打 | 4302 | 9位 |
打点 | 1564 | 5位 |
得点 | 1335 | 8位 |
盗塁 | 65 | |
盗塁死 | 35 | |
四球 | 1475 | 王貞治選手に次ぐ2位 |
三振 | 1135 | |
打率 | .311 | 8位 |
出塁率 | .422 | |
長打率 | .564 | 4位 |
最多安打 | 1回 | |
首位打者 | 5回 | 1981・1982・1983 1985・1986 |
本塁打王 | 5回 | 1982・1985・1986 1990・1991 |
打点王 | 5回 | 1982・1985・1986 1989・1990 |
MVP | 2回 | 1982・1985 |
ベストナイン賞 | 10回 | 二塁手部門2回 三塁手部門4回 一塁手部門4回 |
ゴールデングラブ賞 | 0回 | |
最高出塁率 | 7回 | 1982・1985・1986・1987 1988・1990・1991 |
殿堂入り | ◎ | 競技者表彰 |
落合選手の打撃の特徴
落合選手の打撃の特徴は、バットを体の前に立てて構えるので神主打法と呼ばれました。
過去のプロ野球で神主打法と呼ばれたのは、このブログでも以前取り上げましたが、
松竹ロビンスの岩本義行選手です。
さらに、落合選手は、ボール球には手を出さない基本を守りつつ、右打者でありながら、ライトへのホームランも量産できる打者でした。
広角打法ですね!
落合本人は、ライトへの打球が多いことについて、
「私はライトには狙って打ったことは1度もない。センター返しをしてるつもりが打球はライトに飛んで行ってしまう」と語っています。
さらに、「ヒットだけでいいなら4割を打てていた」とも語っており
「4番打者はホームランを狙わなくてはならないときもある」とも語っていました。