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【31歳の史上最年少で2000本安打達成】【安打製造機】榎本喜八選手の成績

プロ野球選手で名を残すには、打者なら1000本安打、投手なら100勝以上と言われています。

1000本安打は、令和3年の現在まで、外国人選手も含めて309人が達成しています。

クロ
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309人もいるんだニャー!

2000本安打は、令和3年の現在まで、外国人選手も含めて53人。

3000本安打は、令和3年の現在まで、張本勲選手1人だけ。
(※日米通算で達成したイチロー選手は除きます)

それでは、最も若くして1000本安打、2000本安打を達成した選手はわかりますか?

その選手こそ、今回紹介する、オリオンズで活躍した榎本喜八選手です。(*^-^*)

榎本選手は、早稲田実業高校から毎日オリオンズに入団テストを受けて合格して入団。

高卒選手ながら開幕戦にも出場。その年、早くも146安打を打ち、打率.298を記録して新人王を受賞。

以後、パ・リーグを代表するアベレージヒッターとして活躍しました。

史上最年少31歳7ヶ月で2000本安打達成

榎本喜八選手は素晴らしい記録の持ち主ですが、榎本選手の作った記録は、最年少記録が沢山あります。

その中でも代表的な記録は、

昭和36年9月27日に、阪急ブレーブス、米田哲也投手から1000本安打を24歳9ヶ月で達成しました。(38人目)

昭和43年7月21日に、近鉄バファローズ、鈴木啓示投手から2000本安を31歳7ヶ月で達成しました。(3人目)

いずれも日本プロ野球の最年少記録です。

2020年に、巨人の坂本勇人選手が2000本安打を達成して話題になりましたが、坂本選手は31歳10ヶ月かかり、榎本選手に僅かにおよびませんでした。

クロ
クロ
坂本選手、惜しかったニャー!

榎本選手が2000本安打を達成したのはまだ31歳のときですので、もし40歳ちかくまでプレーをしていたら3000本安打も達成できたかもしれません。

実際には、プロ1年目から15年続けてきた100安打が16年目でとぎれて、昭和47年に引退しています。

毎日オリオンズの入団テストに合格し入団

榎本選手は、早稲田実業高校の選手でした。

甲子園には、昭和28年春、昭和29年の春と夏の3回出場しています。
ただ、目立った成績はのこしていません。

高校時代は、本人が生前「大振りのバッターでした」と語っています。

プロのスカウトたちも、榎本選手を「荒い打者」という評価をしており、どの球団からも声がかかりませんでした。

しかし、榎本本人はプロ入りを熱望しており、毎日欠かさず500本の素振りをこなし、毎日オリオンズの入団テストを受け、見事合格します。

オリオンズの入団テストを受けた理由は、早実の先輩だった荒川博がいたためです。

入団テストでは、往年の名選手で監督の別当薫から高い評価を得ます。

球団側も期待して、背番号も3を与えられました。

「【パ・リーグ初代MVPを受賞】強打者、別当薫の成績」の記事はこちら

新人で打率.298を記録。数々の高卒新人記録をつくる

さて、見事毎日オリオンズの入団テストに合格した榎本選手ですがオープン戦で活躍します。

公式戦も開幕戦に高卒ながら5番打者として出場。4打席目に早くも敬遠されます。

以後、3番打者として活躍し、
オールスターゲームにもファン投票で出場。

シーズンが終わってみると、

490打数146安打、打率.298  16本塁打、67打点と見事な成績を残し新人王を受賞します。

あと1本安打が多ければ3割打者でした。

↓下記が、榎本選手が残した新人の昭和30年の記録です。

令和3年の今でも高卒新人の最高記録になっています。

昭和30年に榎本喜八選手がつくった高卒新人記録
139試合
592打席
490打数
84得点
146安打
24二塁打
7三塁打
87四球
5敬遠
5犠飛
出塁率.414

 

首位打者2回。バッティングの教科書のような選手

榎本選手は、6年目の昭和35年に初めて3割打者になり、通算で6回3割打者になりました。

そのうち、昭和35年は.344、昭和41年には.351で2回首位打者を獲得しました。

榎本選手の打撃の特徴は、まずバッターボックスでびどうだにせず、選球眼が抜群によく、ボール球には決して手をだしませんでした。

さらに、バットの芯で正確に球をとらえて弾き返し、ヒットを量産することから、
【安打製造機】と呼ばれました。

稲尾和久氏は、「史上最高のバッター」と評価し

豊田泰光氏は、「打てないコースというのがほとんど存在しない」

張本勲氏は、「教科書のようなフォーム。理想的なバッティング」

野村克也氏は、「ボール球を見送るときピクリとも動かない。表情も変わらない。あれほど恐ろしい打者には後にも先にもお目にかかったことがない

など、榎本選手のバッティングについては、色々な選手が賞賛するほどです。

完璧主義であり練習熱心で、自宅に60万円をかけて、小さな打撃練習場をつくり家に帰っても練習をかかせない程。

全盛期には、「自分の脳裡に自分のバッティングの姿がよく映る」ほどのきょくちを体験しています。

榎本選手の色々な奇行と晩年の生活

さて、榎本選手は選手としては間違いなく超一流のプレーヤーでしたが、実は、色々な奇行な行動をしたことでも有名です。

たとえば、昭和41年のオールスターゲームで、試合前の練習には1人だけ、参加せずにベンチでじっと座禅を組んでいたエピソードや

さらに、昭和生まれて2000本安打を達成しているのに名球会には入らず、晩年は人と付き合いを経ち、大家さんとして生活していたりなど、

変わり者だという人が多いです。

ただ、打撃コーチとして球界復帰を望んでいたので、引退後も自宅から東京球場まで往復42キロのランニングなど、トレーニングをかかさずにいました。

しかし、残念ながら結局球界からは声がかからずに打撃コーチ就任はなりませんでした。

打撃の神髄 榎本喜八伝 (講談社+α文庫)

榎本喜八選手の年度別打撃成績

年度 試合 安打 打率 本塁打 打点
昭和30 139 146 .298 16 67
昭和31 152 148 .282 15 66
昭和32 128 120 .269 9 50
昭和33 123 112 .260 13 43
昭和34 136 137 .276 11 49
昭和35 133 170 .344 11 66
昭和36 137 180 .331 8 42
昭和37 125 160 .331 17 66
昭和38 143 169 .318 18 64
昭和39 149 161 .298 17 71
昭和40 139 132 .268 10 57
昭和41 133 167 .351 24 74
昭和42 117 108 .290 15 50
昭和43 129 149 .306 21 77
昭和44 123 109 .273 21 66
昭和45 110 86 .284 15 39
昭和46 45 22 .244 4 18
昭和47 61 38 .233 1 14
合計 2222 2314 .298 246 979

榎本喜八選手の通算成績

身長 172cm
体重 71kg
利き腕 左投左打
守備位置 一塁手
背番号 3
所属球団 毎日オリオンズ
大毎オリオンズ
東京オリオンズ
ロッテオリオンズ
(昭和30~46年・17年間)
西鉄ライオンズ
(昭和47年・1年間)
実働 18年
試合 2222
打席 9002
打数 7763
安打 2314 15位
二塁打 409 10位
三塁打 47
本塁打 246
塁打 3555
打点 979
得点 1169
盗塁 153
盗塁死 84
四球 1062 12位
三振 645
打率 .298
出塁率 .386
長打率 .458
最多安打 4回
首位打者 2回
本塁打王 0回
打点王 0回
新人王 受賞 昭和30年
MVP 0回
ベストナイン賞 9回 9回はパ・リーグ記録
ゴールデングラブ賞 0回
殿堂入り エキスパート部門
2016年
(平成28年)