さて、今回は阪急ブレーブスのエースとして長く活躍し、通算歴代2位の350勝をあげた米田哲也氏をとりあげます。米田氏は、同僚の左腕で250勝投手の梶本隆夫氏とヨネカジコンビといわれ、阪急ブレーブスの勝利に大貢献しました。
米田哲也氏の年度別成績

年度 | 勝利 | 敗戦 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
S.31 | 9 | 15 | 204 | 167 | 2.38 |
S.32 | 21 | 16 | 299.2 | 268 | 1.86 |
S.33 | 23 | 13 | 305.2 | 268 | 2.12 |
S.34 | 18 | 24 | 331.1 | 247 | 2.11 |
S.35 | 22 | 16 | 306.2 | 213 | 2.73 |
S.36 | 16 | 22 | 275.2 | 188 | 3.55 |
S.37 | 20 | 17 | 261.2 | 231 | 3.23 |
S.38 | 14 | 23 | 262.1 | 177 | 4.00 |
S.39 | 21 | 16 | 319.2 | 180 | 2.53 |
S.40 | 20 | 17 | 276 | 139 | 3.00 |
S.41 | 25 | 17 | 310 | 184 | 3.19 |
S.42 | 18 | 15 | 280.2 | 189 | 2.75 |
S.43 | 29 | 13 | 348.2 | 237 | 2.79 |
S.44 | 14 | 16 | 253.1 | 135 | 2.95 |
S.45 | 16 | 13 | 236.2 | 127 | 3.57 |
S.46 | 14 | 4 | 181 | 79 | 3.73 |
S.47 | 10 | 7 | 155.2 | 81 | 3.23 |
S.48 | 15 | 3 | 175.1 | 103 | 2.47 |
S.49 | 11 | 8 | 130.2 | 68 | 4.26 |
S.50 | 10 | 6 | 146.1 | 68 | 2.53 |
S.51 | 2 | 2 | 30 | 17 | 4.50 |
S.52 | 2 | 2 | 39 | 22 | 4.62 |
合計 | 350 | 285 | 5130 | 3388 | 2.91 |
米田哲也氏の記録の数々
新人の昭和31年に9勝を記録します。2年目には21勝をあげて早くも20勝投手となります。以後昭和50年まで19年連続の2桁勝利を記録。令和2年の現在でも日本記録として残っています。もし、1年目にあと1つ勝っていれば20年連続になるところでした。
ただ、当時の阪急ブレーブスはあまり強くなく、例えば防御率2.11だった昭和34年も18勝24敗で6つも負け越しています。
米田氏は球が滅法速く、強気の投球で勝星を積み重ねました。通算で350勝は金田正一投手に次ぐ歴代2位で、右投手ではトップです。
勝星ばかりがとりあげられがちですが、登板数と投球回も凄いです。通算で949登板は平成29年に中日の岩瀬仁紀に抜かれるまで長い間日本記録でした。投球回に至っては通算5130回。先発登板626は今でも日本記録です。
米田氏本人も「体力だけは絶対に誰にも負けない自信があった」と語っており、自他ともに認めるスタミナの持ち主でした。
「300勝くらいまでは本当にあっという間にいってしまった」とも語ってもいます。
因みに、米田氏は、そのタフネスから
「ガソリンタンク」や「人間機関車」などのニックネームがつきました。
(ガソリンタンクの方は酒を沢山飲むところからついた説もあります)
パリーグ記録の3試合連続完封。(2度記録)
昭和33年のシーズン11完封 パリーグ記録。
投手で通算33本塁打(2位)
投手で満塁本塁打とサヨナラ本塁打を記録(投手で唯一)
高校時代 二重契約
米田さんは昭和13年3月3日に鳥取県米子市に生まれました。中学時代は走り高跳の選手でした。
境高校では野球部に所属しましたが、初めは投手ではなく捕手。1年秋から投手に転向。
エースとして活躍しますが、甲子園は未出場におわります。
高校卒業まじかに、阪急の丸尾スカウトが熱心に誘われ、米田自身も入団を決意します。しかし、その後阪神にも誘われ阪神のユニフォームを着て練習にも参加してしまいます。
結局、二重契約問題となりますが、コミッショナーの裁定により阪急に正式に入団します。
今でも、時々雑誌などで米田さんが阪神タイガースのユニフォームを着て写っている写真を見かけるのはこうした理由があります。
阪急初優勝
下位チームでずっと投げ続けてきましたが、昭和42年に西本幸雄監督のもと、阪急ブレーブスはついに、創立32年目にして初のリーグ優勝をはたします。米田氏自身も18勝をあげて貢献しました。(同僚の梶本投手も15勝をあげて優勝に貢献)
翌年も阪急は優勝し、この年は29勝をあげて、リーグのMVPに選ばれました。
その後、昭和50年途中に阪神に志願して移籍、昭和52年最後の年は近鉄でプレーして引退しました。

引退後 現在まで
あとは、あまり知られていませんが、阪神タイガースが2リーグ制以後、初の日本一になり日本中がタイガースフィーバーだったこの年に、阪神の投手コーチをしていたのがこの米田さんです。
昭和60年は、とにかく阪神の打ち勝つ野球が有名で知らないファンも多いようです。
その後、オリックスと近鉄のコーチもして現在に至っています。
米田さんは今でも色々なところで、投手はもっと投げ込まないといけないだとか丈夫でないといかんと力説しています。
勿論自身の投手人生の体験からが大きいと思います。昔に比べて今の選手は体力がないと言われていますが、やはり先発投手は完投することがある意味勲章でもあるのでそういった投手をたくさん見たいものです。