日本のプロ野球選手が目指す記録の1つとして、打者なら2000本安打、投手なら200勝という記録があります。勿論、どちらもそう簡単に達成できる記録ではありません。長い間第一線で活躍しない限りは達成できません。
今回は、黎明期の巨人の4番打者として史上初の2000本安打を達成し、「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治選手を紹介します。
史上初、大正生まれ唯一の2000本安打達成

令和2年の現在まで52人の2000本安打が達成されていますが、川上さんが昭和31年5月31日に、中日の中山俊丈投手から初めて達成しました。
大正生まれでは唯一の達成でもあります。
何故大正生まれの選手で2000本安打が川上さんだけかというと、当時の選手は引退する年齢が今(令和の現在)より早かったのがまずあげられます。
それと、今程記録が騒がれなかった時代でもあり、さらにプロ野球設立当初は試合数が年間100試合にも満たないシーズンが多々あったからだと考えられます。
さらに、当時の社会状況で、戦争で兵隊に生かされ、野球生活を中断を余儀なくされたこともあります。川上さん自身も、昭和18年~昭和20年の3年間は試合に出られませんでした。
いずれにしても、川上さんが、史上初、大正生まれでは唯一の2000本安打を達成したことは間違いない事実なので、これはプロ野球の歴史として球史に刻まれています。
川上哲治の年度別成績
年度 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
S.13春 | 7 | .200 | 0 | 2 | 0 |
S.13秋 | 35 | .263 | 3 | 24 | 2 |
S.14 | 116 | .338 | 4 | 75 | 8 |
S.15 | 122 | .311 | 9 | 66 | 7 |
S.16 | 105 | .310 | 4 | 57 | 5 |
S.17 | 73 | .266 | 3 | 27 | 5 |
S.21 | 85 | .305 | 10 | 67 | 2 |
S.22 | 137 | .309 | 6 | 57 | 16 |
S.23 | 150 | .298 | 25 | 105 | 12 |
S.24 | 180 | .330 | 24 | 129 | 9 |
S.25 | 175 | .313 | 29 | 119 | 34 |
S.26 | 141 | .377 | 15 | 81 | 14 |
S.27 | 153 | .320 | 4 | 82 | 15 |
S.28 | 162 | .347 | 6 | 77 | 22 |
S.29 | 164 | .322 | 8 | 87 | 26 |
S.30 | 147 | .338 | 12 | 79 | 17 |
S.31 | 160 | .327 | 5 | 67 | 16 |
S.32 | 132 | .284 | 5 | 52 | 6 |
S.33 | 107 | .246 | 9 | 66 | 4 |
合計 | 2351 | .313 | 181 | 1319 | 220 |
川上哲治の通算成績

実働 | 18年 | |
試合 | 1979 | |
打席 | 8424 | |
打数 | 7500 | |
安打 | 2351 | 歴代13位 |
打率 | .313 | 歴代6位 |
二塁打 | 408 | |
三塁打 | 99 | 歴代4位 |
本塁打 | 181 | |
塁打 | 3500 | |
打点 | 1319 | |
得点 | 1028 | |
盗塁 | 220 | |
四球 | 823 | |
三振 | 422 | |
出塁率 | .383 | |
長打率 | .467 | |
首位打者 | 5回 | |
本塁打王 | 2回 | |
打点王 | 3回 | |
最多安打 | 6回 | |
ベストナイン | 10回 | |
MVP | 3回 |
左投左打 背番号16
巨人の4番として不動の活躍 「打撃の神様」と呼ばれる
川上さんは入団当初は投手として出場していましたが、バッティングセンスを買われ、打者として頭角をあらわします。
通算猛打賞194回は張本勲選手についで歴代2位
通算3塁打99本は歴代4位
8年連続打率3割(昭和24〜31年)
昭和26年には、自己最高の打率.377の高打率で2度目のMVPを受賞しています。


この記録は、平成元年にクロマティが.378で更新するまで、長い間巨人のチーム記録でした。
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こうした活躍から「打撃の神様」「弾丸ライナー」「テキサスの哲」
など色々なニックネームがつきました。
因みに、川上さんの守備位置は一塁手でしたが、打撃ほど力を入れていなかったせいか、あまりうまくなかったと伝わっています。
二塁手でライト打ちの上手い千葉茂、中堅手でホームランバッターの青田昇、投手でスライダーの藤本英雄、鉄腕の別所毅彦などと黄金時代をきづきました。
因みに、昭和23〜25年の時期の本塁打数が増えているのは、東急フライヤーズの大下弘選手のホームランに影響されて、長打を狙いにいったからだといわれています。
巨人軍に投手として入団 花の昭和13年組
川上さんは、大正9年3月23日に、熊本県人吉市に生まれました。5歳の時にときに、転んで左投げになります。打つ方はまだ右で打ってました。
高校は、熊本工業高校に進学します。2年生の4月から左打ちに転向します。
投手として、吉原正喜とバッテリーを組み、夏の甲子園に2度出場。いずれも準優勝という好成績をおさめます。因みに、春の選抜も1度出場しています。
高校卒業後、父親は鉄道員にさせたかったようですが、巨人、阪神、阪急、南海という職業野球チーム(今のプロ野球のこと。昔はこう呼ばれていた)から誘われて、結局巨人軍に捕手の吉原正喜とともに入団します。
のちの活躍からは信じられないことですが、各球団の本当の狙った選手は捕手の吉原で、投手の川上はそのついでだったということでした。
川上さんと同期に入団した吉原正喜捕手、松山商の千葉茂選手は、花の13年組と呼ばれています。残念ながら、吉原選手は戦争で亡くなってしまいましたが、この3人はのちにみんな野球殿堂入りをしています。
監督としてV9達成。日本シリーズで負けなし
現役を引退後、昭和36年から水原茂監督の後任として、巨人軍の監督に就任しました。
長嶋茂雄、王貞治の大打者2人を上手く器用して、監督14年間で日本一11回、(日本シリーズは負け無し)Bクラスは1度だけと、巨人軍の黄金時代を作り上げました。
巨人のV9の黄金時代については、過去に記事を書きましたのでリンクを貼っておきますので是非お読みください。
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