巨人軍は昭和50年にデーブジョンソンを獲得してから沢山の外国人選手が来日しました。
その中でもNO.1ともいわれるウォーレンクロマティを紹介します。これを読めばクロマティ選手の成績がよくわかります。
読売巨人軍球団。年度別成績
昭和59年に大リーグ、モントリオール・エクスポズをフリーエージェントとなり日本の読売巨人軍に入団します。王貞治監督のもと、1年目から.280 35本塁打93打点の好成績を残します。ただ、クロマティ本人は周りの首脳陣や選手に認められるのに3年はかかったと言っています。
以後、毎年のように3割30本塁打90打点を記録します。昭和61年には.363の高打率を記録します。しかし、阪神のランディ・バースがそれを上回る.389を記録したので首位打者はとれませんでした。
打率 | 本塁打 | 打点 | 備考 | |
昭和59年 | .280 | 35 | 93 | |
昭和60年 | .309 | 32 | 112 | |
昭和61年 | .363 | 37 | 98 | |
昭和62年 | .300 | 28 | 92 | |
昭和63年 | .333 | 10 | 36 | |
平成元年 | .378 | 15 | 72 | MVP 首位打者 |
平成2年 | .293 | 14 | 55 | |
通算7年 | .321 | 171 | 558 |
平成元年、本塁打を捨て、打率重視のバッティングに変え、今度は.378を打ち、見事初のタイトル首位打者を獲得しました。(.449で最高出塁率も獲得)
この打率は、昭和26年の川上哲治選手が記録した.377を破り、令和2年の現在でも球団記録になっています。チームの96試合目まで4割をキープしていたのも日本記録です。
チームも独走してリーグ優勝し、日本シリーズも3連敗から4連勝して日本一!
さらに、20勝した斎藤雅樹投手らをおさえてMVPを受賞し、最高の1年になりました。

クロマティの日本での通算成績
実働7年
試合 779
得点 478
安打 951
四球 226
盗塁 26
MVP 1回 平成元年
首位打者 1回
最高出塁率 1回
最多安打 1回
最多勝利打点 2回
ベストナイン 3回
エクスポズ時代
クロマティ選手は1953年9月29日フロリダ州マイアミビーチに生まれました。
1973年6月の2次ドラフトでモントリオール・エクスポズに指名され入団し、3年目からレギュラーとして活躍します。
左投げ左打ちで外野手。
バッティングはクラウチングスタイルでミートが上手な打者でした。
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日本でのエピソード
クロマティ選手というと、常にがむを噛んで風船を膨らませたり、とにかく明るい性格で元気があって、外野守備についたときの「バンザイ!」パフォーマンスなどファンを楽しませてくれました。(^ ^)
平成2年の6月2日の対広島戦では、2死2塁の場面で金石投手の敬遠球を打ち、サヨナラヒットにしたこともあります。(令和2年の現在では、申告敬遠が導入されたのでもうできませんが)
昭和62年の日本シリーズでセンターを守っていて、ゆっくりした守備でシングルヒットで、ランナーを1塁からホームインさせてしまったり、バッティングほど力をいれてないことを指摘されました。それでも日本での7年間間違いなく好成績で、3度のリーグ優勝、日本一1回に貢献しました。
巨人軍のアドバイザーに正式就任
日本のプロ野球を引退後、「さらばサムライ野球」というタイトルの本を出版しました。その後、アメリカに戻って1年だけカンザスシティ・ロイヤルズでプレー。クライムというバンドでドラムを担当し、音楽活動もするなど精力的に活動していました。2020年から現役時代にクリーンナップを組んでいた辰徳監督の要請でに巨人軍のアドバイザーに正式に就任しました。