プロ野球 番外編

【戦争でプレーを中断】もしプレーできていたら?!記録を計算したぞ!

さて、日本にプロ野球が発足して今年で86周年になります。

現在のプロ野球の歴史や繁栄、人気は過去にプレーした多くの選手の素晴らしい活躍があったからにほかなりませんよね!

ところで、プロ野球の黎明期は、戦前であり、

その時代にプレーした戦中派の選手たちは、戦争で戦地にかりだされ、貴重な野球人生を何年も奪われてしまった選手も少なくありません

実際、昭和11年から始まった職業野球(現在のプロ野球のこと)も昭和20年の1年間は公式戦が1試合もが行われませんでした。

今回は、そんな時代に活躍した選手が、もし戦争にかりだされなかったら、何処まで記録がのびていたのかを、前後の記録を参考にしながら検証してみることにしました。

足し算の記録と率の記録

まずはじめに、例えば打者の打率や投手の防御率や勝率など、率の記録はほとんど影響がありませんが、

打者の安打数や本塁打数、投手の勝利数や奪三振数などプラスされていく記録は、プレーできない期間があると、モロに年間記録や、通算記録に影響がでます。

例えば、打者の記録で1試合に1安打を記録したとして計算するとします。
年間100試合のシーズンを丸々プレーできないことになると、

通算の安打数がそれだけで100マイナスになります。

つまり、通算1400安打で引退した選手が、ブランクがあった年をプレーできていれば、通算1500安打を記録していたことになります。

この同じ理屈で本塁打数や、投手の勝利数なども年間記録や通算成績に影響がでている選手が実は沢山いるんです。∑(゚Д゚)

昔の選手は現在ほど記録にこだわりがなかったといわれてはいますが、やはり記録はプロ野球の宝であり楽しみの1つなので、もしあのシーズンをプレーできていればをあえて検証してみます。

因みに、令和2年の今年も、コロナの影響で公式戦の試合数がセ・パリーグともに143試合から120試合に減少されました。

セリーグの最多勝は14勝をあげた巨人の菅野智之選手、パリーグの最多勝はソフトバンクの千賀、石川、楽天の涌井投手の11勝と、例年より減少しました。

公式戦が全く行われなかった昭和20年の試合数は、プロ野球が再開した昭和21年に105試合行われているので、この記事では100試合と仮定して計算することにします

打者編

藤村富美男選手のケース

阪神タイガースのミスタータイガースとして有名な藤村富美男選手ですが、実は戦争で5年間(昭和14.15.16.17.20年)もプレーを中断しています。

藤村選手の通算試合数は1558試合で、通算安打数は1694安打です。つまり、1試合に1安打以上打っていた計算になります。

そこで、藤村選手がプレーできなかった5年間の阪神タイガースの通算試合数は489試合になります。

1試合1安打と仮定して計算すると489安打になり、通算1694安打に489安打がプラスされて通算2183安打になります。

藤村選手は、プロ野球創立のときから阪神に在籍していたので、もしかしたら、2000本安打第一号の川上哲治選手より先に、2000本安打を記録していた可能性がありますね!

ミスタータイガース、藤村富美男選手の記事はこちら

千葉茂選手のケース

松山商業時代に甲子園で全国制覇。昭和13年に巨人でデビューし、ライト打ちの名人でもあり、守備の名手でもあった千葉茂選手も戦争で4年間(昭和17.18.19.20年)もプレーを中断しました。

藤村選手のケースと同じように計算します。

千葉選手がプレーを中断した4年間の巨人の試合数は324試合。

千葉選手も通算1512試合で1605安打と試合数を上まわる安打数なので1試合1安打として計算。

1605安打に324安打がプラスされて1924安打になります

ライトうちの名人、千葉茂選手の記事はこちら

青田昇選手のケース

滝川中学を中退して17歳で巨人でデビュー。阪急、大洋でも活躍し、本塁打王を5度も獲得した青田昇選手も戦争で2年間(昭和19.20年)プレーを中断しました。

青田選手がプレーを中断した2年間の巨人の試合数は135試合。

青田選手も通算1709試合で1827安打しているので1試合1安打として計算。

1827安打プラス135安打で通算1962安打になります。

うまくいけば、2000本安打も達成できていたかもしれませんね

ホームランバッター、青田昇選手の記事はこちらこちら

投手編

野口二郎選手のケース


甲子園でノーヒットノーランを記録し、プロ野球で527.1投球回、40勝を記録するなど、鉄腕とよばれた野口4兄弟の次兄、野口二郎投手も戦争で2年間(昭和19.20年)プレーを中断しています。

野口投手の場合、プロ入りから戦地に行くまでの5年間は、33.33.25.40.25勝と驚異的な156勝をあげています。1年平均31勝です。

ということで、投手の場合、毎年試合数やチーム事情や起用法により勝利数を推定するのは難しいですが、野口投手の場合、年30勝はしていたという計算からブランクの2年間で合計60勝。

通算勝利数237勝プラス60勝で通算297勝。

もし計算通りなら、通算の勝利数順位が11位から7位にランクインします。

別所毅彦選手のケース

(フォトサイモンInfangerにUnsplash)

南海ホークス、読売ジャイアンツと2球団で長い間エースとして君臨した別所毅彦投手も戦争で2年間(昭和19.20年)プレーを中断しています。

別所投手といえば、大きなカーブを武器に、通算で310勝をあげ、30勝2度を含む20勝を8度も記録した大投手として有名です

戦後復帰してからの南海での3年間の勝利数が、19.30.26勝。1年平均25勝。

ということで、やはり野口投手と同様、年25勝はしていたという計算から、ブランクの2年間で合計50勝。

通算310勝プラス50勝で通算360勝。

そうなると、投手の通算勝利数も1位の金田正一投手の400勝に次ぎ、360勝で5位から2位にランクインすることとになります。

さらに、別所投手は通算の奪三振数も1934個なので、奪三振数も通算で2000個を超えていた可能性は充分あります!

300勝投手、別所毅彦投手の記事はこちら

真田重蔵投手のケース

昭和25年に、松竹ロビンスでシーズン39勝をあげたエースの真田重蔵投手も戦争で2年間(昭和19.20年)プレーを中断しました。

真田投手の場合も、戦後復帰してすぐに昭和21年から25.23.25勝と3年連続20勝。1年平均24.3勝。

ということで、年24勝はしていたとう計算からブランクの2年間で合計48勝。

通算勝利数178勝プラス48勝で通算226勝。

200勝投手の仲間入りをしていたことになりますね!(#^.^#)

セ・リーグ記録のシーズン39勝の記録を持つ、真田重蔵投手の記事はこちら

まとめ

選手名 安打数 ブランク 改定後安打数
藤村富美男 1694安打 5年 2183安打
千葉茂 1605安打 4年 1924安打
青田昇 1827安打 2年 1962安打
選手名 勝利数 ブランク 改定後勝利数
野口二郎 237勝 2年 297勝
別所毅彦 310勝 2年 360勝
真田重蔵 178勝 2年 226勝

 

さて、6例紹介しましたがいかがだったでしょうか?

昔の選手が戦争で記録のハンデがあるということがわかってもらえたら嬉しいです!

ここであげた6人の他にも戦争でプレーを中断した選手が沢山います。

ただ単に記録で損をしているだけでなく、好きな野球をできなくなってしまったのは僕も野球少年だったので悔しさはよくわかります。

今年はコロナな影響で甲子園も中止になってしまいましたが、長い人生何があるかわかりませんので、1日1日を大切にしましょう。